宮崎周一中将日誌
―大本営陸軍部作戦部長―
著者 | 防衛研究所図書館所蔵 軍事史学会編 |
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定価 | 16500円(10%税込) | |
本体 | 15000円(税別) | |
判型 | A5判 | |
体裁 | 上製本・函入 | |
発行日 | 平成15年6月1日 | |
ISBN | 9784764603165 | |
ページ数 | 530頁 |
大本営陸軍部作戦部長が明かす対米(対中)作戦の実情!!
宮崎周一(明治28年長野県生まれ、陸士28期、陸大39期)主として作戦畑を歩き昭和16年8月少将、昭和17年10月第17軍参謀長に任じられ、困難極まるガダルカナル島争奪戦に従事した。昭和18年8月陸軍大学校幹事を経て、昭和19年8月大陸打通作戦のために新設された第六方面軍参謀長に任じられた。同年10月中将、12月参謀本部第一部長に任じられ、ここに戦争末期の戦況まことに不利な時期於ける全陸軍の作戦を担当することになった。
刊行にあたって
軍事史学会会長・上智大学教授 高橋 久志
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軍事史学会は、昭和期軍部の研究の更なる発展に寄与するため、陸海軍の中枢部にあって先の大戦で戦争指導に直接関わった重要人物による生の記録を基本史料集として刊行することを、近年新しい事業の一つとした。その第一弾が平成十年に刊行され、江湖の研究者の間で少なからぬ好評を博した、大本営陸軍部戦争指導班『機密戦争日誌』全二巻であった。そして、今回これに引き続き、『宮崎周一中将日誌』を世に送り出すことが出来ることは、学会にとり、大きな喜びである。 『宮崎周一中将日誌』の監修には伊藤隆軍事史学会前会長が直接当たり、永江太郎と中山隆志の両氏は長期間にわたって宮崎中将の難解な癖字の判読作業と校正に取り組んでくれた。そうした地道で献身的な努力が、今回見事に実を結んだわけである。また、ご遺族の宮崎忠夫氏は、史料集としての刊行を快諾して下さったばかりか、日誌の原本を快く貸して下さった。しかも、最終校正の段階になって、作戦部長時代の日誌他の原本が遺族宅で発見され、校正の再点検を迫られた。そこで、刊行がかなり遅れることとなったが、結果的には良かったと思われる。ここに改めて関係者の皆様に感謝したい。 宮崎周一中将が残した記録は、昭和期の陸軍を知る上で第一級の史料である。防衛庁防衛研修所戦史室編の公刊戦史『戦史叢書』の編纂に際し、それは根本史料の一つとして複写され、現在防衛研究所図書館で一般公開されている。 宮崎中将は終戦時の参謀本部作戦部長としては広く知られるが、その若き修行の日々に長期にわたって戦史研究に勤しんだことは余り知られていないであろう。陸大卒業後、宮崎が陸軍中央で初めて与えられた職場は参謀本部外国戦史課であり、続く陸大教官時代にも戦史教育を担当し、しかも、日中戦争の勃発にもかかわらず、西欧戦史研究のため、欧州出張までさせられているのである。このように九年半も戦史研究に従事した将軍は、陸軍全体でも珍しいのではなかろうか。そこで長年にわたる戦史研究で培った物事の観察力や分析能力、そして、何よりも記録を残すことの使命感が、軍人宮崎の真骨頂となった。 そうした宮崎であったからこそ、中国大陸やガダルカナルの戦場にあっても、また、作戦部長としての激務の合間に、自己の体験を透徹した眼で観察する一方で、それを手際よく整理し、かつ忠実に記録して残すことを続けたのである。かくして彼の残してくれた様々な記録は、公式記録では窺い知ることのできないような作戦指導をめぐる確執や現地軍の内情等々、昭和の陸軍を研究する上で、貴重な史料となっているのである。本史料が多くの研究者によって利用され、昭和期陸軍の研究が更に進展することを願ってやまない。 | |
監修にあたって
軍事史学会顧問・政策研究大学院大学教授 伊藤 隆 | |
軍事史学会は平成十年に、昭和十五年から二十年にかけての『大本営陸軍部戦争指導班・機密戦争日誌』上下二巻を翻刻刊行した。そして引き続き軍事史の基礎史料の翻刻刊行を行うことを、学会の重要な事業の一つとして位置付けた。その第二弾というべき事業が、この『大本営陸軍部作戦部長宮崎周一日誌』である。 永江太郎氏による「解題」に詳しく述べられているように、宮崎周一は昭和十九年十二月から約一年最後の大本営陸軍部作戦部長として、太平洋戦争終末期の比島作戦から終戦に至る戦争指導の中枢にあった人物である。ここに翻刻した前後にも詳細な記録を残した。宮崎は昭和二十年十一月に史実部長になり、翌月予備役に編入後は第一復員省史実部長の職にあり、戦史編纂に強い関心を持っていたと思われ、その厖大な記録は防衛研修所(現防衛研究所)戦史部に一部は現物で、一部はコピーとして収められ、防衛研修所戦史部が編纂公刊した『戦史叢書』に随所で引用された。 今回翻刻されたのは、太平洋戦争勃発後、昭和十七年十月に第十七軍参謀長として中国戦線での従軍、また昭和十八年第六方面軍参謀長としてガダルカナル作戦に従軍した時期のものを含め、その後の陸軍部作戦部長時代の日誌を中心としたものである。諸事情からそれ以前のシナ事変従軍日誌やその後の復員省時代の日誌などを割愛せざるを得なかった。今後これらも翻刻できるようになることを期待したい。しかし今回翻刻された部分だけでも、太平洋戦争史研究に計り知れない貴重な貢献であろうと確信する。多くの研究者が利用されることを期待したい。 本日誌の解読・校正の作業は、中山隆志、永江太郎両氏が担当した。本日誌は極めて読みにくい文字で記され、しかも倉卒の間に書かれたということもあり、解読は困難を極めた。お二人は大変な努力をされて解読作業を進められ、漸く今日刊行に至ったのである。私も多少のお手伝いをしたが、最後まで解読できない部分が残った。お二人の努力に感謝するものである。 最後にこの翻刻を快く承諾され、また一部原本を提供して下さったご遺族宮崎忠夫氏に深く感謝の意を表する。またこの困難な出版に努力して下さった錦正社の中藤政文氏にも厚くお礼を申し上げる。 | |
『宮崎周一中将日誌』の刊行を祝して
元大本営陸軍部聯合艦隊参謀・亜細亜大学理事長 瀬島 龍三
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この度、大本営陸軍部最後の作戦部長宮崎周一中将の日誌が刊行されることになり、誠に喜ばしく思います。思えば、敗戦既に明らかとなった昭和十九年十二月、宮崎閣下が着任された頃の作戦部は、レイテ決戦に挫折した後の比島作戦の全般的あり方に苦慮している最中でした。作戦部長として、恒例の状況報告を受けて概要を把握された宮崎閣下は、早速マニラに飛んで山下大将、武藤参謀長と会見し、爾後の作戦指導の方針を決定されました。この間の事情がこの日誌には詳しく記されています。 宮崎閣下に初めてお会いしたのは、昭和十一年陸軍大学校に入校した時ですが、昭和十四年秋からの五年間、私は作戦課一筋で勤務しましたので、何かとお目にかかる機会があり、ガダルカナル島でも、現地視察に行きました時に、第十七軍参謀長時代の宮崎閣下にお会いしました。この間、宮崎閣下の冷静な状況判断と的確な作戦指導、特にあらゆる苦難を克服する精神力には心から敬服していました。 改めて、新作戦部長として迎えた宮崎閣下は、陸大教官当時と同様に何事にも動ずることなく、きわめて冷静な姿勢を堅持しておられました。変転する情勢の変化に追随することなく、原理原則に立脚した戦略・戦術思想に基づく判断・決心に努力されたお姿が今も目に浮かびます。 その後、翌二十年七月に関東軍参謀に転出するまでの約半年、部下として直接仕えて参りましたが、この間最も印象に残っていますのは、最後まで勝利を信じて最善を尽くす不屈の闘魂でした。 宮崎周一中将の日誌には、日々の記録とともに所感が記されていますが、当時作戦部の一員であった私にとりまして、万鈞の重みを感ずるものがあります。大東亜戦争の戦史研究に、不可欠な第一級史料であると信じる所以です。また、軍人のあり方・生き方を学ぶ資料としても、貴重であると思います。この日誌が広く普及して、大東亜戦争の真実を解明するのに役立つことを心から期待します。 | |
推薦のことば 日本大学法学部教授・現代史家 秦 郁彦 | |
宮崎周一中将の名は最後の大本営陸軍部作戦部長として知られているが、このたびその日誌が刊行されるようになったことを歴史家の一人として嬉しく思う。 宮崎中将は、政治軍人が派手に跳梁した時代には珍しく、地味な参謀将校の本分に徹した人であった。軍歴を見ても、参謀本部戦史課と陸軍大学校の戦術・戦史教官が長い。後半はめぐり合わせもあろうが、漢口作戦の作戦参謀やガダルカナル作戦の軍参謀長、大陸縦貫作戦の方面軍参謀長、そして最末期の大本営作戦部長と苦闘の舞台を転々とした。 しかし、参謀本部という日本独特の軍事機構の葬送役を果たした彼は、越世の史家へまたとない贈り物を残してくれた。膨大な「参謀本部歴史草稿」(防衛研究所図書館蔵)と今回刊行される日誌シリーズである。陸軍と戦争の本質を史家の手で解き明かしてくれることを、故人は期待していたのではあるまいか。 | |
推薦のことば 戦略研究学会会長・作家 土門 周平 | |
戦車師団の中隊長で復員した私は、戦争がどうして負けたのか、わからなかった。そこで連隊長に、どうしたらわかるか相談した。連隊長は「俺にはわからん」と言って、大本営陸軍部戦争指導班に在籍した原四郎さんを紹介してくれた。 当時、復員局で資料整理課長をやっておられた原さんは、「月に一度くらいの割で、勉強したところを討議に来給へ」と親切に答えてくれた。原研究室の訪問は四、五年続いた。 その際、二十八期の戦争の権威として、宮崎周一中将の話が出た。他に原さんは、二十期代には飯村譲、村上啓作、四手井綱正等大家が多いと言っていたことを覚えている。 二十九年夏、原さんは私に自衛官になって、専門的に戦史を勉強することを薦められた。幹部特別課程ということで、富士学校に入校し、売店で話に聞いた宮崎中将の論文が掲載されている月刊誌を見つけた。「見方、考え方」という初級幹部向きのものであったが、私はその説得力、視点の広さ、論理の厳しさに感動した。学生宿舎の二段ベットで、時間一杯宮崎論文を読み耽った。 十二年後、戦史編纂官として戦史叢書五冊の起草を命ぜられた。開戦から終戦までのソロモン、ニューギニアの陸軍作戦が主題であった。その一つの山場であるガダルカナル作戦に、第十七軍参謀長として宮崎少将が登場した。少将は「残骸録」と題するガ島作戦間の日々の記録を残してくれた。 幸いなことに、宮崎参謀長と御一緒に苦労された小沼治夫高級参謀が、市ケ谷戦史室の近くにお住まいだったので、「残骸録」を持参して、解説していただいたこともあった。 ガ島戦史が自信を持って、しっかりしたものになったのは、残骸録のお陰である。斯く、私にとって思い出の深い第十七軍参謀長時代の日誌「残骸録」が、今回刊行の『宮崎周一中将日誌』の中に含まれていることに一入の感慨を覚える。 |
目次
『宮崎周一中将日誌』の刊行に際して〔高橋 久志〕解題〔永江 太郎〕
略年譜
凡例
大本営陸軍部作戦部長時代の日誌
作戦秘録(上)(昭和十九年十二月~二十年四月)
作戦秘録(下)(昭和二十年四月~二十年九月)
第十七軍参謀長時代の業務日誌
ガダルカナル島作戦秘録『残骸録』(昭和十七年九月~十八年三月)
陸軍大学校幹事・第六方面軍参謀長時代の日記
陣中秘録(昭和十九年五月~十九年十二月)